正信偈本文(5)善導・源信・法然

ぜん どう どく  みょう ぶっ しょう い
善 導 独 明 仏 正 意

善導独り、仏の正意を明かにせり。

*善導大師はただ独り、これまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。

【解説】

 善導大師(西暦613~681)は、導綽禅師の弟子で、隋・唐時代の中国浄土教を大成した方です。『観無量寿経(観経)』を註釈した『観経疏(かんぎょうしょ)で、中国諸師の『観経』に対する誤解(多くは自力修行の結果浄土が感得できると理解)を正し、仏(釈尊)の正意を明らかにして、『観経』は阿弥陀仏の願力よって、罪悪深重の凡夫も、真実の浄土に往生できることをあきらかにされました。


こう あい じょう さん よ ぎゃく あく
矜 哀 定 散 与 逆 悪

定散と逆悪とを矜哀して、

*善悪のすべての人を哀れんで、

【解説】

矜哀=あわれむこと。

定散=観無量寿経で説かれた定善(じょうぜん)と散善(さんぜん)の人(自力で行を修する)。定善とは、心を一つの対象に集中し、雑念を払い心を凝らして仏・浄土などを観察する行のこと(浄土真宗辞典P358)散善とは、散乱したこころのままで、悪を止め善を修める行のこと。(浄土真宗辞典P250)

逆悪=五逆罪(五種の重罪※)と十悪(※)を造る悪人のこと。

定散と逆悪を合わせて「善悪すべての人」となり、全ての衆生のこととなる。

五逆=五種の重罪。一般には①父を殺す②母を殺す③阿羅漢の聖者を殺す④仏の身体を傷つけて出血させる⑤教団の和合を破壊し分裂させる。(浄土真宗辞典P200)

十悪=殺生(せっしょう/生きものを殺す)・偸盗(ちゅうとう/ぬすみ)・邪淫(じゃいん/よこしまな性)・妄語(もうご/嘘いつわり)・綺語(きご/誠のない飾り言葉)・悪口(あっく/ののしり)・両舌(りょうぜつ/仲たがいの言葉)・貪欲(とんよく/(むさぼ))・瞋恚(しんに/怒り)・愚癡(ぐち/おろかさ)(または邪見(じゃけん))のこと(浄土真宗辞典P304)

「定散と逆悪とを矜哀して」の意味は、(善導大師が)自力で行を修する者も五逆や十悪をつくる悪人も哀れんで、ということになります。



こうみょうみょうごうけん いん ねん
光 明 名 号 顕 因 縁

光明・名号因縁を顕す

*光明と名号が縁となり因となってお救いくださると示された。

【解説】

光明(阿弥陀仏の智慧の光)が縁となり南無阿弥陀仏の名号が因となることを顕す。

因縁=因は結果をもたらす直接的原因、縁は間接的原因または条件のこと

 私たちを照らし護り育むはたらきが「光明」で、それを「縁」とあらわし、私たちの心に入って「信心」となり、往生浄土の「因」となってくださるはたらきを「名号(南無阿弥陀仏)」であらわされるのです。

 親鸞聖人は教行信証行巻で「善導大師は、『往生礼讃』に『阿弥陀仏は光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られ、わたしたちはただ信じるばかりである』といわれている」(教行信証現代語版P110)といわれました。

 

かい にゅう ほん がん だい ち  かい
開 入 本 願 大 智 海

「本願の大智海に開入すれば、

*「本願の大いなる智慧の海に入れば、

【解説】

開入=開き導き入れること

大智海=阿弥陀仏の大慈悲の智慧が深く広いことを大海にたとえた

 

ぎょうじゃしょうじゅ こんごう しん
行 者 正 受 金 剛 心

行者正しく金剛心を受けしめ、

*行者は他力の信を回向され、

【解説】

 阿弥陀仏の智慧の海に入れば念仏の行者は正(まさ)しく「金剛心」である他力の信心を受ける(回向される)のです。

金剛心=金剛石(ダイヤモンド)のような堅固な心のことで、どのようなものにも妨げられたり壊されたりしない堅固な信心のこと。

 善導大師は『散善義』において「この心のかたく信ずることは、金剛のようであるから、すべて仏教と異なる教えの人や、浄土門以外の人や、浄土門の中でも考えの違う人たちによって、乱されたり、やぶりくだかれたりすることがない。」(聖典七祖P464の現代語訳)といわれました。


きょうき  いち ねん そう  おう ご
慶 喜 一 念 相 応 後

慶喜の一念相応して後、

*如来の本願にかなうことができたそのときに、

よ   い だい とう ぎゃくさん にん
与 韋 提 等 獲 三 忍

韋提と等しく三忍を獲、

*韋提希と同じく喜忍・悟忍・信忍の三忍を得て、

そくしょう ほっしょうし じょう らく
即 証 法 性 之 常 楽

即ち法性の常楽を証せしむ」といえり。

*浄土に往生してただちにさとりを開く」と述べられた。

 

【解説】

慶喜=「『慶喜』というのは、信心をすでに得てよろこぶ心」(尊号真像銘文現代語版P56)

一念=信心をいただいた最初の時

相応=相い応ずる。

慶喜の一念相応して後=信心に恵まれ喜んだ最初の時、仏と相い応じたその後

韋提=観無量寿経に出てくる韋提希(いだいけ)夫人のこと。韋提希夫人の前に阿弥陀仏が姿を現してお立ちになったとき、夫人は直ちに三忍を得た。

三忍=浄土真宗辞典によりますと、三忍とは「他力信心にそなわる三つの徳義。①喜忍(歓喜の思い。法を聞き、安心してよろこぶ心)、②悟忍(仏智を領得すること。真実のいわれをはっきり知る心)、③信忍(仏力を信じること。本願を疑いなく信じる心)の三」(浄土真宗辞典P253)のこととあります。忍とは「はっきりと確かめて受け入れること」(同P533)ということで、確かなことを認めることで心が落ちつけられることをいいます。

 「慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、」とは、一念の信心によって得るところの現世の利益を明かし、この後の「即ち法性の常楽を証せしむ」は来世の利益を明かします。

法性=「真実そのもの」のこと。「真如」ともいう。ここでは仏のさとりの世界である浄土のこと。

常楽=涅槃の4つの徳の1つに常楽我浄のことで四徳といいます。浄土真宗辞典では「涅槃の4種の徳のこと。常(永遠不滅の徳)・楽(苦悩のない徳)・我(自在の力の徳)・浄(煩悩のけがれのない徳)の四。これらをそなえた涅槃を無為涅槃という」(浄土真宗辞典P288)とあります。

 この、三句を続けて解釈すると、「善導大師は『如来の本願にかなうことができたそのときに、韋提希と同じく喜忍(必ず往生することを喜ぶ心)・悟忍(仏の智慧の真実をはっきり知る心)・信忍(本願を疑いなく信じる心)の三忍を得て、(後に)浄土に往生してただちにさとりを開く』と述べられた。」となります。

 

げん しん こう かい いち だい きょう
源 信 広 開 一 代 教

源信広く一代の教を開きて、

*源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、

へん  き あん にょうかん いっ さい
偏 帰 安 養 勧 一 切

偏に安養に帰して一切を勧む

*ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった。

【解説】

源信=源信和尚(かしょう)(942~1017)、恵心(えしん僧都そうず)ともいいます。『往生要集』を著して浄土信仰の根拠を示されれました。浄土に「真実の報土ほうど/本願の報われた真実浄土)」と「方便の化土けど/疑いを持った者がうまれる、浄土の辺鄙(ぺんぴ)な地)」とがあり、報土を願う者には本願の称名念仏を勧められました。

一代の教を開きて=釈尊の説かれた教えを広く学ばれて

安養=安養世界つまり阿弥陀仏の浄土

一切を勧む=世のすべての人々にもお勧めになった



せん ぞうしゅうしん  はん せん じん
専 雑 執 心 判 浅 深

専雑の執心、浅・深を判じて、

*さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、化土にしか往生できないが

ほう  け  に  ど しょう べん りゅう
報 化 二 土 正 弁 立

報・化二土正しく弁立せり。

*念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかに示された。

【解説】

専雑=専修(せんじゅ)と雑修(ざっしゅ)のこと。

専修=専(もっぱ)ら阿弥陀仏の本願を信じてただ念仏する人(専修(せんじゅ)念仏)

雑修=念仏だけでなく他の雑多な行をまじえて修める人

執心=執持(しゅうじ)心=執(と)りたもつ心のこと。つまり信心のこと

判浅深=専修は他力の信心で深く、雑修は自力の信心で浅いと判別する。

報化二土=報土と化土のこと。

報土=本願の報われた真実浄土

化土=疑いを持った自力の行者が生まれるところで、浄土の中の辺鄙な地にある。

弁立せり=明らかに示す

 親鸞聖人は、源信僧都の往生要集を引用して、報土と化土について説かれています。

「さまざまな行を修めるものは信心が堅固(けんご)でない人である。だから懈慢界(けまんがい/化土のこと。なまけ、おごる自力心のものがとどまるところ)に生まれるのである。他の行をまじえないでひとすじに念仏すれば、これは信心が堅固であって、間違いなく極楽世界(報土)に生まれるであろう。」(教行信証現代語版P462・P453下注)と、他力信心の専修のひとは報土に生まれ、雑修の人は化土にしか生まれないと説かれたのです。

 

ごくじゅう あくにん ゆい しょうぶつ
極 重 悪 人 唯 称 仏

「極重の悪人は唯仏を称すべし。

*「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。

【解説】

極重悪人=極めて罪の重い悪人。仏の教えに従えない人、真実に背く人、「極重の悪人はただ仏を称すべし」 (正信偈大意 註釈版聖典P1037)

 阿弥陀様が必ず救うとはたらいていてくださっているのに、そのお心を跳ね返すような人、それが「極重の悪人」と示されているのです。

 親鸞聖人は、素直に「南無阿弥陀仏」を称えるならば、阿弥陀仏は、そのような「極重の悪人」でも、むしろそのようなどうにもならない「極重の悪人」だからこそ、必ず摂(おさ)め取ってくださるのだと、源信僧都が私たちを励ましてくださっていると見ておられるのです。


が  やく ざい  ひ  せっ しゅ ちゅう
我 亦 在 彼 摂 取 中

我亦彼の摂取の中に在れども、

*わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、


ぼんのうしょうげん すい ふ けん
煩 悩 障 眼 雖 不 見

煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も、

*煩悩が私の眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、

だい  ひ  む  けんじょうしょう が
大 悲 無 倦 常 照 我

大悲倦きこと無くして常に我を照したまふ」といえり

*阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。

【解説】

 彼摂取中=阿弥陀様の救いの中にしっかりと摂め取られているという事

この三句は『往生要集』にある下記の文言を正信偈に表したものです。

「われまたかの摂取(せつしゆ)のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦(ものう)きことなくして(見捨てることなく)、つねにわが身を照らしたまふ。」(聖典七祖篇P956・註釈版聖典信巻 P229)
現代語訳は「わたし(源信僧都のこと)もまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見ることができない。しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」(教行信証現代語版P192)となります。

 阿弥陀という言葉は、インドのアミタという『はかりない』という意味の言葉を中国で漢字にしたもので、「寿命がはかりない(寿命無量)」という『アミターユス』の意味と「光明がはかりない(光明無量)」という『アミターバ』をあらわしています。(『阿弥陀仏』のページ参照)

 光明無量というのはどこでも照らしているということ、寿命無量というのは過去・現在・はるか未来まで、いつでも照らしているということなので、この仏の光明にいつでもどこでもすべての人が照らされているのです。

 ただ私達がその光明をみることができないのは、目が煩悩に覆われているからです。
 そのことを親鸞聖人は正信偈の中で「煩悩が私の眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と源信僧都の段であらわされたのです。

 

ほん  し げん くう みょう ぶっ きょう
本 師 源 空 明 仏 教

本師源空は仏教に明かにして、

*源空上人は、深く仏の教えをきわめられ、

【解説】

 仏教に明らかにして=仏教の教義すべてに精通すること

 本師源空とは、法然聖人(1133~1212)のことです。

 比叡山で「智慧第一の法然」といわれ天台教学を学びますが、善導大師の「観経疏(かんぎょうしょ)」の「ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。(中略)阿弥陀仏の本願にしたがうからである」(教行信証現代語版P178)を読み、専修(せんじゅ)念仏に帰されました。

 比叡山を下りて念仏の教えを広め、「選択(せんじゃく)本願念仏集(選択集ともいう)」を著され、浄土門を一宗として独立されました。浄土宗の開祖です。

 法然聖人は、他力の念仏はただ阿弥陀仏の選択本願(第十八願の)にあることを示されました。

 親鸞聖人は、1201年建仁元年に法然聖人のもとを訪ね、門下に入りました。

「愚禿釈の鸞、(略)雑行を棄てて本願に帰す」(註釈版聖典P472) 現代語訳:「この愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依した」(教行信証現代語版P642)といわれました。



れん みん  ぜん まく ぼん ぶ  にん
憐 愍 善 悪 凡 夫 人

善・悪の凡夫人を憐愍せしむ。

*善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで、

 

【解説】

善悪の凡夫人=善人も悪人も、阿弥陀様のはたらきなしには苦しみ悩みから抜け出せない存在であるのが凡夫。

憐愍=あわれみ、いつくしむこと



しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう
真 宗 教 証 興 片 州

真宗の教証、片州に興す。

*この国に往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ、

 

【解説】

真宗=真実の教えの意味

教証=教行証の略で、教義全体のこと。

片州=日本のこと。アジアの東の片側にある島国なのでそう呼ぶ



せんじゃく ほん がん ぐ  あく  せ
選 択 本 願 弘 悪 世

選択本願、悪世に弘む。

*選択本願の法を五濁の世にお広めになった

 

【解説】

悪世=五濁悪世。私たちの生きている世界。

 選択本願とは、浄土真宗辞典に「阿弥陀仏の四十八願の根本である第十八願において衆生往生の行が選択されたという意味。また、その第十八願を指して選択本願という(中略)衆生が修めるべき浄土往生の行について、難劣である諸行(他力念仏以外のもろもろの行や善)が選び捨てられ、勝易の二徳をそなえた行である称名念仏が選び取られたのが第十八願であるとする(中略)『ただ称名念仏の一行(唯一の行)をもってその往生の本願となしたまへり』(聖典七祖P1210)(浄土真宗辞典P424/p630)と述べられています。

 法然聖人は、一切衆生を平等に救おうとする阿弥陀仏が、第十八願において『浄土往生の行業として、諸行に比べ価値が勝れ、誰にでも実践できる易しい行である称名念仏を選択された』ことを明らかにされたのです。

 選択本願という十八願の願名は法然聖人がはじめて用いたものです。親鸞聖人はそのことを「選択本願の法を、五濁の世にお広めになった」といわれたのです。

 法然聖人は、念仏往生を誓った第十八願は平等の慈悲がまさしく具現したものであるとうけとめ、これを「本願中の王」(聖典七祖P1228)とよんでおられます。

 

げん らい しょう じ  りん でん  げ
還 来 生 死 輪 転 家

「生死輪転の家に還来ることは、

*「迷いの世界に輪廻し続けるのは、

けっ  ち  ぎ じょう い  しょ し
決 以 疑 情 為 所 止

決するに疑情を以て所止と(為)す。

*本願を疑いはからうからである。

そくにゅうじゃくじょうむ  い  らく
速 入 寂 静 無 為 楽

速に寂静無為の楽に入ることは、

*速やかにさとりの世界に入るには、

ひっ  ち しん じん  い  のう にゅう
必 以 信 心 為 能 入

必ず信心を以て能入と(為)す」といへり

*ただ本願を信じるより他はない」と述べられた。

【解説】 

還来=行ったり戻ったり繰り返すこと。再び元の場所に帰ってくること。

生死輪転の家=車輪が回るように、生まれては死に、死んでは生まれて、迷いの世界(六道)をさまよっている住み家。それは阿弥陀仏の本願を疑うことによる。

疑情=阿弥陀仏の本願を疑うこと

所止=迷いの世界にとどまること

寂静無為の楽(みやこ)=寂静・無為はともに涅槃(ねはん)のことで、さとりの世界のこと。寂静は煩悩がなく心が平静で安らかなこと。無為は生滅(しようめつ)変化を超えて常住(じょうじゅう)絶対の真実のこと。

能入=入ることのできる因のこと。信心が浄土に入る因となることをいった。

 還来生死輪転家~必以信心為能入までの四句は、信疑決判(しんぎけっぱん)といわれるものです。

 信疑決判とは、私たちが本願を疑っていつまでも迷いの世界にとどまるか(最初の二句)、それとも本願を信じて浄土に往生し、さとりの世界に入るか(次の二句)を表されたものです。

 法然聖人は選択集において、「まさに知るべし、生死の家には疑いをもって所止となし、涅槃の城(みやこ)には信をもって能入となす。」(聖典七祖篇p1248)といわれました。

 「生死の家」とは、迷いの世界のことであり、「涅槃の城」とはさとりの世界のことです。わたしたちが迷いの世界を輪廻するのは本願を疑うことによるのであり、浄土に往生するのは本願を信ずることによるのだといわれたのです。

 往生浄土の可否は、本願を信ずるか疑うかにあると明確に判定されたことを信疑決判というのです

 

ぐ  きょう だい じ しゅう し  とう
弘 経 大 士 宗 師 等

弘経の大士・宗師等、

*浄土の教えを広めてくださった祖師方は、

【解説】

弘経=無量寿経の趣旨を弘められたこと。

大士=龍樹菩薩・天親菩薩

宗師等=曇鸞大師・導綽禅師・善導大師・源信和尚・源空(法然)聖人



じょうさい む  へん ごく じょく あく
拯 済 無 辺 極 濁 悪

無辺の極濁悪を拯済したまふ。

*数限りない五濁の世の衆生をみなお導きになる。

【解説】

拯済=救い助けること

無辺=限りないこと。

極濁悪=五濁悪時悪世の衆生



どう ぞく  じ しゅう ぐ  どう しん
道 俗 時 衆 共 同 心

道俗時衆、共に同心に、

*出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに、

ゆい  か  しん し  こう そう せつ
唯 可 信 斯 高 僧 説

唯斯の高僧の説を信ず可しと。

*ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい。

【解説】

道=僧侶

俗=在家

時衆=現在道場に参集している人々、また広く今の世の人々。

高僧説=七高僧の説

 

 

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