正信偈(8) 正信偈本文(2)依経段(2)

にょ らい しょ  い  こう  しゅっ せ
如 来 所 以 興 出 世

如来世に興出したまふ所以は、

*如来が世に出られるのは、

ゆい せつ  み   だ   ほん がん かい
唯 説 弥 陀 本 願 海

唯弥陀の本願海を説かんとなり。

*ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためである。

【解説】

 弥陀とは阿弥陀仏のことで、『本願海(本願一乗海)』は本願名号の功徳が深く広いことを海にたとえたものです。

 阿弥陀仏は第十七願で十方の諸仏(如来)に、名号をほめたたえることで、あらゆる世界にひろめてもらおうとします。釈尊もそのお一人で、浄土三部経を説き、その名号をほめたたえられるのです。釈尊をはじめあらゆる諸仏は、阿弥陀仏の本願を説くことをその本懐とされるのです。

 親鸞聖人は、自著の『尊号真像銘文』において、この二文を自ら解説されています。

 「『如来所以興出世」』というのは、さまざまな仏がた(如来)が世にお出ましになるわけはという言葉である。『唯説弥陀本願海』というのは、仏がたが世にお出ましになる本意は、ただひとえにすべてのものにさとりを開かせる阿弥陀仏の本願の教えを説くことにあるというのである。(略)『如来』というのはさまざまな仏がたということ」(尊号真像銘文現代語版P54)といわれました。ここでの如来とは釈迦如来など諸仏(さまざまな仏がた)のことをいいます。

 無量寿経に釈尊(釈迦如来)は「(自身を含めた)如来はこの上ない慈悲の心で迷いの世界をお哀れみになる。世にお出ましになるわけは、仏の教えを説き述べて人々を救い、まことの利益(りやく/本願名号のこと)を恵みたいとお考えになるからである。」(浄土三部経現代語版P14)といわれ、あらゆる如来(諸仏)が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願一乗海の教えを説くためであったといわれるのです。

 

ご  じょく あく じ  ぐん じょう かい
五 濁 悪 時 群 生 海

五濁悪時の群生海、

*五濁の世の人々は

おう しん  にょ らい にょ じつ ごん
応 信 如 来 如 実 言

(応に)如来如実の言を信ずべし。

* 釈尊のまことの教えを信じるがよい。

 【解説】

「五濁」とは、貪(むさぼ)りや怒り・人間の資質の低下・誤った悪い考えがはびこるなど、人の世の五つの汚れをいいます。この五濁に満ちた悪い世が「五濁悪世」で、その時代が「五濁悪時」といいます。

 「群生海」とは衆生のことを海にたとえたもので、「五濁悪時群生海」とは「五濁の世の人々」の意味です。 

 ここでの『如来』は直接私たちに教えを説かれた『釈尊』のことになります。

 親鸞聖人は尊号真像銘文において

「『五濁悪時群生海 応信如来如実言』というのは、さまざまな濁(にご)りと悪に満ちた世界のあらゆるものは、釈尊のお言葉を疑いなく信じるがよいというのである」(尊号真像銘文現代語版P56) と示されました。

 

のう ほつ いち  ねん  き  あい しん
能 発 一 念 喜 愛 心

能く一念喜愛の心を発すれば、

*信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、

ふ   だん  ぼん のう とく  ね  はん
不 断 煩 悩 得 涅 槃

煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

*自ら煩悩を断ちきらないまま、浄土で悟りを得ることができる

【解説】

 一念とは信心を得たとのときのことです。喜愛心とは信心を喜ぶこころです。

 涅槃とは、すべての煩悩を滅したさとりの状態をいいます。浄土は阿弥陀仏の願力(がんりき)による清浄功徳な世界なので、煩悩にまみれた凡夫(ぼんぶ)であっても、煩悩を断ぜずして浄土で涅槃を得るのです。



ぼんじょうぎゃくほう さい  え にゅう
凡 聖 逆 謗 斉 廻 入

凡聖・逆謗斉しく廻入すれば、

*凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、

にょ しゅ しいにゅう かい いち  み
如 衆 水 入 海 一 味

衆水海に入りて一味なるが如し

*どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる

【解説】

 親鸞聖人は、尊号真像銘文において、 
「『凡聖逆謗斉廻入』というのは、小聖(しょうしょう)※・凡夫※・五逆※・謗法(ほうぼう)※(中略)などのさまざまのもの(『凡聖逆謗』)が、自力の心をあらためて真実信心の海に入れば(廻入※)、みな等しく救われることを、どの川の水も海に入ると一つの味になるようなものであるとたとえているのである。」(尊号真像銘文現代語版P56)といわれました。

※小聖=仏を大聖(だいしょう)というのに対して、小乗のさとりを得た聖者および大乗の十地(菩薩の52階位のうち41位から50位)の菩薩のこと(尊号真像銘文現代語版の註釈P56)

※凡夫=「愚かなもの」の意味。真理にくらく、煩悩に束縛されて、迷いの世界を輪廻するもの。(同P56)

※五逆=五種の重罪。一般には①父を殺す②母を殺す③阿羅漢の聖者を殺す④仏の身体を傷つけて出血させる⑤教団の和合を破壊し分裂させる。(同P56)

※謗法=仏の教えをそしり、正しい真理をないがしろにすること。(同P56)

※廻入=自力をひるがえして帰入すること。(浄土真宗聖典) 

 このように聖者・凡夫・五逆や謗法のものであっても、どんな人でも、仏の本願をいただいた信心の人は、阿弥陀仏の功徳によって平等に救われるのです。

 しかし一方、無量寿経の第十八願には、「ただ五逆と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く」(註釈版聖典P18)とあります。これは矛盾ではないと親鸞聖人はいわれるのです。

 このことについて親鸞聖人は『尊号真像銘文』において

「『唯除五逆誹謗正法』というのは、『唯除』というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界のあらゆるものがみなもれることなく往生できるということを知らせようとしているのである。」(同P6)といわれました。

 これは、五逆と誹謗正法は極めて重罪であるから、衆生がこれを犯さないようにとどめるために説かれたもの(抑止門(おくしもん)という)で、極めて重罪であることを知らしめ、回心させようとする意であると示され、救いの対象からもれるものではないとしたのです。

 

せっ しゅ しん こう じょうしょう ご
摂 取 心 光 常 照 護

摂取の心光常に照護したまふ。

*阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂(おさ)め取ってお護(まも)りくださる。


い  のう  すい  は   む  みょう あん
已 能 雖 破 無 明 闇

已に能く無明の闇を破すと雖も、

*すでに無明の闇ははれても、

 

【解説】

心光=仏の大慈悲心の光明

摂取=おさめとるの意味。仏の光の中に衆生をおさめとること。

 親鸞聖人は、照護することについて、「護(まも)るというのは、他の教えや他の見解にしたがう人たちによって信心を破られることがなく、自力の心で念仏する人たちによって信心をさまたげられることがなく、魔王にも襲われることがなく、邪悪な鬼や神もその人を悩ますことがないということである」(一念多念証文現代語版P16)と言われ、また『尊号真像銘文』において「『摂取心光常照護』というのは、信心を得た人を、無碍光仏(むげこうぶつ/阿弥陀仏)の光明は常に照らしてお護りになる(照護)ので、迷いの暗闇が晴れ、生まれ変わり死に変わりし続けてきたその長い夜がすでに明け方になっていると知るのがよい」(尊号真像銘文現代語版P57)といわれました。


とん ない しん  ぞう  し  うん  む
貪 愛 瞋 憎 之 雲 霧

貪愛・瞋憎の雲霧、

*貪(むさぼ)りや怒りの雲や霧は、

じょうふ  しん じつ  しん じん てん
常 覆 真 実 信 心 天

常に真実信心の天に覆えり。

* いつもまことの信心の空をおおっている。

ひ  にょう にっ こう  ふ  うん  む
譬 如 日 光 覆 雲 霧

譬えば日光の雲霧に覆わるれども、

*しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、

うん  む   し   げ  みょう む  あん
雲 霧 之 下 明 無 闇

雲霧の下明らかにして闇無きが如し

*その下は明るくて闇がないのと同じである。

【解説】

貪愛瞋憎=貪(むさぼ)ること、愛着すること、瞋(いか)ること、憎むこと。(精選版 日本国語大辞典)

親鸞聖人は『尊号真像銘文』において

 「『貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天』というのは、わたしどもの貪(むざぼ)りや怒りを雲や霧にたとえて、それらがいつも信心の空をおおっているのであると知るがよい。」(尊号真像銘文現代語版P57)といわれました。現実の私は煩悩の中にいて、真実信心を覆い隠していることを示されたのです。

 また「『譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇』というのは、太陽や月が雲や霧におおわれていても、闇は晴れて雲や霧の下が明るいように、貪りや怒りの雲や霧に信心がおおわれても、往生のさまたげになることはないと知るがよいというのである。」(同P57)といわれました。

 これは、信心を恵まれた人は、煩悩が往生のさまたげにならない、いつも仏の光明に照らされていることを示されたたとえです。



ぎゃくしん けんきょうだい きょう き
獲 信 見 敬 大 慶 喜

信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば、      

*信を得て大いによろこび敬う人は、  

そく おう ちょう ぜつ ご  あく しゅ
即 横 超 截 五 悪 趣

即ち横に五悪趣を超截す。

*ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ち切られる。

【解説】

見て敬い=見は心で明らかにみることで、見て敬う心の起こること。

五悪趣=衆生が自らなした悪業(あくごう)によって導かれ趣くところ。地獄・餓鬼・畜生・人・天の迷いの世界。(浄土真宗辞典)

超截=飛び越えて、束縛(そくばく)を断ち切ること

 横超する益(やく)をあげています。他力信心を頂き、大きく慶喜する人は、獲信の時、同時に横さまに一足跳びに地獄・餓鬼・畜生・人間・天上という五つの迷いの世界を跳び超え、断ち切るのです。

 親鸞聖人は尊号真像銘文において「『獲信見敬大慶喜』というのは、この信心を得て大いによろこび敬う人というのである。『大慶』とは、得なければならないことをすでに得て大いによろこぶというのである。『即横超截五悪趣』というのは、信心を得るとただちによこざまに迷いの世界のきずなが断ち切られると知るがよいというのである。『即横超』というのは、『即』は『すなわち』ということであり、信心を得る人は時を経ることも日をおくこともなく正定聚の位に定まるのを『即』というのである」(尊号真像銘文現代語版P58)といわれました。

 また、「『横』は『よこざまに』ということであり、それは阿弥陀仏の本願のはたらきであり、他力のことをいうのである」(同P58)「『超』は『こえて』ということであり、他力により迷いの大海を容易に越えて、この上ない大いなる涅槃のさとりを開くのである。つまり他力の信心が往生浄土の根本であると知らなければならない。この意味においては『他力においては義のないことをもって根本の法義とする』と源空聖人(法然聖人)が仰せになっているのである。『義』というのは、行者がそれぞれに思いはからう心である。このようなわけで、それぞれに思いはからう心を持っているあり方を自力というのである。」(同P58)と示され、他力の信心が往生浄土の教えの根本であることをいわれたのです。そして自力とは「それぞれに思いはからう心を持つあり方」といわれました。

 

いっ さい  ぜん まく ぼん  ぶ  にん
一 切 善 悪 凡 夫 人

一切善悪の凡夫人

*善人も悪人も、どのような凡夫であっても

もん しん にょ  らい ぐ  ぜい  がん
聞 信 如 来 弘 誓 願

如来の弘誓願を聞信すれば、

*阿弥陀仏の本願を信じれば、

 【解説】

聞信については、「正信偈(4)信心」のページに詳細があります。

 聞とは疑いがない状態で聞く(疑いの蓋をはずす)ことをいいます。教行信証には、「仏願(本願のこと※)の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞(もん)というのである」(教行信証現代語版p233)とあり、『聞く』とは「仏願(本願)の生起本末を聞くこと」であり、そのことに「疑いの心がないこと」です。

 浄土真宗辞典では、「(仏願の生起本末とは)阿弥陀仏の名号のいわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。仏願の本末とは、仏願の因果という意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。」とあります。

※浄土真宗辞典の上記『仏願の生起本末』に「仏願の生起とは、阿弥陀仏が『本願』を起こした理由」(浄土真宗辞典P573)とあるので、仏願とは本願(十八願)のことです。また「親鸞聖人の教え(勧学寮編)」にも「仏願とは阿弥陀仏の本願である」とあります。(親鸞聖人の教えP198)

 仏願の『生起』とは、阿弥陀仏の本願が起こされた理由、ということで、それはとても迷いの世界から出ることのできない私がいたからこそ、仏の願いがおこされたのです。『名号のいわれを聞く』ということは、この私のための本願であったということを聞くことなのです。

 次に『本』とは、法蔵菩薩としてとてつもなく長い期間、衆生救済を思案され、さらにそれを実現するために、兆載永劫(ちょうさいようごう)という量りしれない期間の修行を積まれたことです。

 『末』というのは、本願を起こされた阿弥陀仏のご苦労の結果、さとりを開いて阿弥陀仏となられ、迷える人間が浄土に生まれるための必要な条件をととのえた名号を成就して、私たちに差し向けられ(回向)、私を呼びつづけて下さることをいうのです。

 このように、仏願(本願)の生起本末を聞くということは、阿弥陀仏はひとえに迷える私のために本願を起こされ(生起)、その本願を実現するために長い間の思惟と修行をづづけられ(本)、その本願が成就され、今や南無阿弥陀仏の名号となって私たちに差し向けられ、私を呼びつづけて下さる(末)、そのいわれを聞くということです。

 そしてそれを本願成就文にあるように『疑心あることなし』と聞くのです。

「疑いのふた(疑蓋(ぎがい)=疑いの心)をはずして、そのまま届いてくる仏願の生起本末を聞く」すなわち「そのまま名号のいわれを聞く」ということなのです。疑いの蓋をはずすことで、「名号のいわれ」が心に映り込みます。この映り込んだそのままを衆生が領解した状態を信といいます。これは名号のはたらきが衆生にまさしく至り届いた姿なのです。

 そのことについて、親鸞聖人は、一念多念文意(一念多念証文)において「如来の本願を聞いて、疑う心がないのを『聞(もん)』というのである。また聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。」(一念多念証文現代語版P5)といわれます。

 これを聞即信(もんそくしん)といいます。「(聞即信とは)浄土真宗における聞と信との関係のことで、聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はないということ」です。(浄土真宗辞典P662)

 親鸞聖人は「(この疑心のない)信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(同P662/註釈版聖典P251)といわれ、本願力により恵まれた信心であるとされます。 

 このように、「如来の弘誓願(本願のこと)を聞信する」というのは「仏願(如来の本願の生起本末」を「疑心無く聞く」ことをいうのです。



ぶつ ごん こう  だいしょう  げ  しゃ
仏 言 広 大 勝 解 者

仏、広大勝解の者とのたまへり。

*仏はこの人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、

【解説】
広大勝解者=「広大勝解の者」とは、菩提流支(ぼだいるし/後述)三蔵が漢訳した『無量寿如来会(むりょうじゅにょらいえ/無量寿経の異訳)』に「かの法の中において広大に勝解する者」とあり、阿弥陀仏の広大なすぐれた法をよく領解(りょうげ)した智慧の人という意味です。他力信心の行者をほめた言葉です。



ぜ   にん みょう ふん だ   り   け
是 人 名 分 陀 利 華

是の人を分陀利華と名づく。

*汚れのない白い蓮の花のような人とおほめになる。

【解説】

 芬陀利華とはインドの言葉のプンダリーカを音写したもので白蓮華のことです。

 白蓮華は泥沼に育ちます。そこで真っ白な美しい花を咲かせます。
 この白蓮華の教えでは、煩悩にまみれた世を泥水にたとえ、白蓮華を仏さまの教えに出逢った人にたとえます。

 泥水のような世間の中から、仏さまの教えに出逢った人は、一滴の泥水の汚れもつけず、真っ白な美しい花を開花するのです。

「芬陀利華」について、釈尊が観無量寿経において「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の芬陀利華なり(白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人である)。(中略)諸仏の家(浄土)に生ずべし(生まれるのである)※」(註釈版聖典P117カッコの中は浄土三部経現代語版P213)といわれました。

 インドでは白色をもっとも優れて尊い色と考えるので、本願念仏に生きる者は、白蓮華のように美しく尊い人だと釈尊が讃えたのです。

 善導大師は、その著観経疏(かんぎょうしょ)で、この文を説明して「念仏の者は、すなわち、これ人中(にんちゅう)の好人(こうにん)なり、人中の妙好人(みょうこうにん)なり(中略)人中の最勝人(さいしょうにん)なり」(註釈版聖典七祖P499)といわれました。

 

み    だ  ぶつ  ほん がん ねん ぶつ
弥 陀 仏 本 願 念 仏

弥陀仏の本願念仏は、

*阿弥陀仏の本願念仏の法は、

じゃ けん きょうまん なく しゅ じょう
邪 見 憍 慢 悪 衆 生

邪見・憍慢の悪衆生、

*よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、

しん ぎょうじゅ  じ  じん  に  なん
信 楽 受 持 甚 以 難

信楽受持すること甚だ以て難し、

*信じることは実に難しい。

なん ちゅう し  なん  む   か   し
難 中 之 難 無 過 斯

難の中の難斯に過ぎたるは無し

*難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。

【解説】

邪見=浄土真宗辞典では「よこしまな見解、誤った考え。広い意味で仏教に背くすべての邪悪な思想のことで、とくに因果の道理を否定する考えをさすことが多い。(中略)自力をたのみ、本願を疑う見解を指すこともある」(浄土真宗辞典P300)とあります。

憍慢=自分に愛着しておごりたかぶる心。浄土真宗辞典では「根本煩悩の一。おごりたかぶる心。みずからの才能・地位などに対して執着し、他人に対しておごりたかぶること。また自力にとらわれる心を指すこともある。」(浄土真宗辞典P136)とあります。

「憍慢」は自己満足するので、「自身は罪悪生死の凡夫で常に流転して出離の縁あることなし」と信ずる機の深信に反します。「邪見」は、因果の道理などの仏法にそむく見解なので、法の深信に反します。(※機の深信、法の深信については正信偈(4)信心ページの『二種深信』に詳細があります)

 自力にとらわれている邪見や憍慢の衆生がこの法を自分の力で信じ永く忘れないことはできるものではないので、これを「難の中の難斯に過ぎたるは無し」といったのです。
 弥陀の本願念仏は、ただ他力の信によってのみ恵まれるのです。

 

   ⇒正信偈本文(3)龍樹・天親へ