第五節 往生浄土
【往生即成仏】
浄土真宗の利益は、前述のように現益(げんやく/この世の利益)である正定聚になることと、そして当益(とうやく/来世の利益)である『往生成仏』です。
親鸞聖人は「往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生れることである。阿弥陀仏の浄土は完全に煩悩が寂滅した無為涅槃界であるから、生まれるとただちに仏となる。」(註釈版聖典P1556)示され、また「正定聚の位にあるから、浄土に生れて必ずさとりにいたる」(教行信証現代語版P329)と示されます。
現生(げんしょう/この世)の命を終えるとすぐ阿弥陀仏の浄土に生まれ、ただちに仏となるのです。
では浄土におけるさとりの世界とはどのようなものでしょうか。
教行信証には「かならず滅度に至るはすなはち(中略)これ一如(いちにょ)なり」(註釈版聖典P307)とあり、聖人は、さとりとは『絶対の世界』であることをあらわしておられます。
絶対の世界は、人間には思いはかることもできません。ですからさとりの世界とは、しいていえば『不可思議の世界』です。
阿弥陀仏の浄土は、第十二願の光明無量の願と第十三願の寿命無量の願に報いて完成された世界ですから、親鸞聖人は、「土(浄土)はまたこれ無量光明土なり」(註釈版聖典P337)と、浄土を光明の世界としてあらわされています。
光明とは、智慧のはたらきをあらわしていますが、智慧が人々を導き救う浄土において、真実の証がここで完成されるのです。
それでは、大経や小経に説かれている、美しく楽しい浄土の荘厳はどうなのかということです。
それは本来表現できない世界を、凡夫の私たちにわかるように表現されたものです。そういう表現がないと凡夫の私たちが願生心を起こす手だてがないからです。
【必至滅度(ひっしめつど)の願(第十一願】
また、証巻の最初に
「つつしんで、真実の証(※)を顕(あらわ)せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果(か)である。この証は必至滅度の願(第十一願)より出てきたものである。」(教行信証現代語版P257)とあります。
※真実の証-自身の迷いを完全に脱却するとともに、衆生済度(さいど)が自由自在に可能となること(註釈版聖典P1556)
その必至滅度の願(第十一願)は、「わたしの国の人々が正定聚の位にあり、必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」(教行信証現代語版P331)とあります。
必至滅度とは「かならず滅度に至る」ということで、滅度とは煩悩の寂滅した「さとり」のことですから、浄土に往生すると、かならず仏になるのです。
【往相回向と還相回向】
教行信証教巻の冒頭に
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」(注釈版聖典P135)と示されています。
往相とは、往生浄土の相状の意で、衆生が浄土に生まれて行くすがたを言います。
次に還相(げんそう)とは、還来穢国(げんらいえこく)の相状(そうじょう)ということです。浄土に往生してさとりを開いた衆生が、おのずから大悲心(だいひしん)をおこしてこの生死の世界(穢国)に還(かえ)り来(きた)り、自在に衆生を教化(きょうけ)する(教え導く)すがたをいいます。
真実の証とは、煩悩が寂滅するとともに、さらに衆生をさとりの世界への導き渡す衆生救済が自由自在になることでもあります。
このように「還相」とは、阿弥陀仏の浄土に往生したのち、衆生救済の活動に出ることをいいます。
そして「還相回向」とは、阿弥陀仏が本願力によって還相の活動を与えることをいいます。
浄土文類聚鈔には「しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり」(注釈版聖典P478)とありますから、往相・還相の回向とは、阿弥陀仏の本願力によって回施(回向)される、すなわち恵まれるのです。
衆生の往相も還相も他力回向によるのです。
私たちは、往生成仏するだけでなく、さとりを開いてからの利他活動の徳までも恵まれるのです。
還相回向は第二十二願に誓われています。
第二十二願には
「ガンジス河の砂の数ほどの限りない人々を導いて、この上ないさとりを得させることもできます。すなわち、通常の菩薩ではなく還相の菩薩として(中略)限りない慈悲行を実践することができるのです。」(浄土三部経現代語版P31)とあります。
ここにある「通常の菩薩でなく還相の菩薩」とは、どのようなことでしょうか。
還相には「還来穢国(げんらいえこく)の相状」の本来の意味の他に、「従果還因(じゅうかげんいん)の相状」という「浄土に往生し成仏したものが、(仏の位から、成仏の一歩手前の位である)一生補処の位に還(かえ)り、菩薩の相に至る」(同P32)という意味もあります。
従果還因とは、浄土に往生して成仏しながらも、また菩薩に還ることをいうのです。
これは、成仏していながら、衆生を救い取るため、外にあらわす相は因位の菩薩にとどまるということです。(親鸞聖人の教えP315)
まさしく大乗仏教における最高の菩薩道がここにあるのです。
【倶会一処(くえいっしょ)】
阿弥陀経において、釈尊が、浄土には「最上の位の菩薩たちもたくさんいる。(中略)ぜひともその国に生れたいと願うがよい。(中略)そのわけは、これらのすぐれた聖者(しょうじゃ)たちと、ともに同じところに集うことができる(倶会一処※)からである。」(浄土三部経現代語版P223)と示されています。
※倶会一処は、阿弥陀経にあり「倶(とも)に一つの場所(処/浄土)で会う」という意味です。
親鸞聖人は「『浄土論』には、『浄土の清浄(しょうじょう)の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生(けしょう/浄土に生れること)する』といわれ、また『往生論註』には『同じ念仏によって浄土に生れるのであり、その他の道によるのではないからである』といわれている」(教行信証現代語版P448)と示されました。
ですから、他力念仏の行者は、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、同じ浄土に生れるのです。
他力の信心によって真実報土(しんじつほうど/真実の浄土)へは、みな阿弥陀仏の清らかなさとりの華から生れるのです。それは同じ他力の信心を因として生れるのであり、その他の因によって往生するのではない、と示されているのです。
それに対して、化土(けど/方便化土:阿弥陀仏の本願を疑う第十九願・第二十願の自力の行者が往生する浄土)への往生については「方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである」(教行信証現代語版P449)とあり、方便の浄土に往生する自力の因は、人によってそれぞれにみな異なりますから、往生する浄土も皆それぞれ異なるといわれるのです。
親鸞聖人が高田の入道という門弟に宛てたお手紙(親鸞聖人御消息第十五通/注釈版聖典P769)に倶会一処について書かれてあります。
そこでは、先立った覚信坊(かくしんぼう)が「間違いなく先に浄土でお待ちになっていることでしょう」と述べ、「ともに浄土に往生する」と述べられ、別のときに先立った覚然坊(かくねんぼう)という人の信心は親鸞聖人ご自身の信心と同一であるから、「かならずかならず一つのところへまゐりあふべく候ふ」と、同じ所に生まれることまちがいなしということを述べておられます。
仏説阿弥陀経の『倶会一処』の言葉を拠り所としておられるのです。ともに念仏を喜んだ方々との再会の場が間違いなく用意されているのであるといわれています。
このように他力念仏の衆生は、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、同じ浄土に往生するのです。
本願力回向の信心の行者は、現世における正定の聚(なかま)で、やがて浄土で悟りを得、そこで再び会うのです。現生では、同じ浄土に往くことができるなかまとして、御同朋・御同行と互いに敬愛し、互いにささえあって、苦しみや悲しみを生き抜いていくことこそが、私たち念仏者のあり方なのでしょう。