第二節 本願(第十八願)と名号
このように、阿弥陀仏が一如より方便法身として法蔵菩薩の姿となり、願をおこし修行して成仏されたのは衆生を救うためです。そして、阿弥陀仏が衆生を救うための方法が『本願』と『名号』なのです。
【本願】
阿弥陀仏は、因位(いんに/菩薩が仏のさとりを開くために願をたてて行を修めている期間)である法蔵菩薩であったときに、四十八の誓願をおこしました。
四十八願の内容は、①こんな仏になりたい②こんな浄土をつくりたい③こんな方法で人々を救いたい、というもので利他(衆生救済※)の大慈悲からのものです。
※自利と利他:「大乗仏教の教えは自らのさとりを求めるとともに、広く一切衆生をも救済しようとする自利利他の教えをいい、自利のみならず利他を重視する教えになります。
とりわけ、この四十八願において、利他の大慈悲心をもっとも端的に誓ったのが第十八願です。
第十八願(至心信楽の願=「本願」という)
「たとひわれ仏(ぶつ)を得(え)たらんに、十方の衆生、至心(ししん)信楽(しんぎょう)してわが国に生(しょう)ぜんと欲(おも)ひて(欲生(よくしょう))、乃至(ないし)十念せん。もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)(※)とをば除く」
現代語訳
「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して(称える回数は問わない)、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます。」(浄土三部経現代語版P29)
※「ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗(ひほう)正法(しょうぼう)とをば除く」については、正信偈本文で解説します。
この第十八願を親鸞聖人は、法然聖人の教えを受け継ぎ、「本願」と言われました。『本願』というのは、「衆生救済のための根本となる願」のことです。
この本願が成就して(成し遂げられて)、法蔵菩薩は遙か十劫の昔に阿弥陀仏となられました。その仏の名号(みょうごう)を『南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)』といい、『本願成就の名号』といわれます。
成就とは、願いが願いであるだけでなく、願いを実現するはたらきがそなえられたということで、願いとはたらきが、くいちがわないことをいいます。
阿弥陀仏が、因位の法蔵菩薩の時におこされた四十八願が成就して得た仏果(ぶっか)の不可思議力(りき)は、願のままにはたらくのです。
『本願(十八願の願い)のとおりに完成された力のはたらき』を『本願力(ほんがんりき)』といいます。
本願は、『十方の衆生に阿弥陀仏の救いを信じさせ、その名号を称えさせて、浄土に往生させようという願い』であったので、本願力とは、それを実現するはたらきをいうのです。
【本願力回向(えこう)(他力(たりき)回向)】
一方、親鸞聖人は、この第十八願については、衆生に回し向け施(ほどこ)すことを誓われた願であるとされます。このことを回向(えこう)といいます。
浄土真宗では、阿弥陀仏が本願力をもって、その功徳を衆生にふりむけることを回向というのです。
衆生の側から見ると、阿弥陀仏の本願力(他力)によって功徳が回し向けられるので、これを『本願力回向』または『他力回向』といいます。
教行信証の行巻には「他力といふは如来の本願力なり」とあるように、他力とは、阿弥陀仏の本願力回向のはたらきをいいます。
この回向ということについて、親鸞聖人は曇鸞大師の往生論註のことばを引用して「回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が法蔵菩薩のときに自ら積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである」(教行信証現代語訳P226)といわれました。
つまり親鸞聖人は、本願力回向とは、阿弥陀仏が自らの智慧と慈悲の功徳のすべてを、『南無阿弥陀仏という名号』に込めて、衆生に施し与え(回向)救うことであるといわれたのです。
【南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の名号】
本願成就の阿弥陀仏は、その本願のとおりに「我にまかせよ、必ず救う」と現にはたらき続けている仏で、そういう仏であることをその通りに表現したのが、『南無阿弥陀仏』という名号です。
阿弥陀仏は、この『南無阿弥陀仏』の「名号」をもって衆生を救おうとされるのです。
そのことを明らかにしたのが、親鸞聖人の『南無阿弥陀仏』の『六字釈(ろくじしゃく)』です。
『南無阿弥陀仏』という名号を解釈すると、まず『南無』というのはインドのナマスという言葉の音写で、「帰命」と訳されます。
帰命というのは「帰順勅命」ということで、勅命に帰順する、すなわち『おおせ(勅命)にまかせる(帰順する)』という意味なので、信じてまかせる心、すなわち『信心』のことになります。
親鸞聖人は、「『帰命』とは、わたしを招き、喚(よ)び続けておられる如来の本願の仰せ(原文:本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命)である」(教行信証現代語版P74)といわれます。
南無に続く『阿弥陀仏』とは、『光明無量の仏』『寿命無量の仏』のことです。
光明は智慧をあらわし、寿命は慈悲をあらわします。つまり南無阿弥陀仏というのは「智慧と慈悲を完全にそなえている我にまかせよ」という意味です。
ここにおいて阿弥陀仏は、「南無阿弥陀仏」の名号をもって衆生を救おうとされるのです。
親鸞聖人の『南無阿弥陀仏』の六字釈は、名号である「南無阿弥陀仏」のはたらき一つで救いは成立しますので、私たちを救うのに必要なものは全て南無阿弥陀仏として完成されていることを明らかにするのです。(六字釈の詳細な解説は、乗然著「私の正信偈学習ノート」にあります)
私たちの側では往生成仏に必要なものを用意する必要が全くなく、阿弥陀仏の一方的なおはたらきによって救われていくのが浄土真宗の法義なのです。
【諸仏称名の願(第十七願)】
阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の名号を成就したとはいえ、どんな方法で衆生に届けるかという問題があります。この衆生に届ける役目を果たすのが第十七願です。
第十七願は阿弥陀仏が法蔵菩薩のときのお言葉であり、その内容は、「わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」(浄土三部経現代語版P29)とあり、十方の諸仏に阿弥陀仏の名号をほめたたえさせると誓われているのです。
一方、第十七願が成就されたとする第十七願成就文には「すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏(阿弥陀仏)のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる」(浄土三部経現代語版P71)とあり、第十七願が成就されたとする釈尊のお言葉があります。
このように、十方世界の諸仏にほめたたえられることによって、名号を十方に広めるのです。
われわれの世界でいえば、諸仏のひとりであるのは釈尊です。私たちは釈尊が無量寿経において名号を讃嘆称揚されるのを聞くのです。
私たちは釈尊の教えである無量寿経を通じて名号を受け取ることができます。
【阿弥陀仏・本願・名号】
ここまでの阿弥陀仏・本願・名号の関係をまとめてみます。
苦悩に沈み続ける私たちを救うために、阿弥陀仏は真実のさとりの世界である真如から方便法身として現れて来られました。
そして途方もない長い期間、願(四十八願)と行を積んで、智慧と慈悲を完全に備えた光明無量・寿命無量の仏となられ、本願力をもって私たちを救われます。
この四十八願のうち、すべての衆生を救おうとする大悲の願が本願(第十八願)です。そしてこの本願成就により、本願のとおりにはたらいているのが本願力であり、南無阿弥陀仏の名号です。
阿弥陀仏はその名号の功徳を、第十七願により諸仏に讃嘆させましたが、その諸仏のお一人が釈尊です。釈尊は阿弥陀仏を讃嘆し、その教えをお説きになりました。
それを聞いたインドの僧侶たちが、浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)として記されました。
やがて、それが中国に伝わるのです。
5世紀、阿弥陀経が鳩摩羅什(くまらじゅう)によって、無量寿経が康僧鎧(こうそうがい)によって、観無量寿経は畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)によって、中国で漢文に翻訳されました。
そのとき「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の六字の名号が漢訳出典されたのは『観無量寿経』であり、ついに六字の名号の形をとり、私たちに届けられたのです。
その届けられた名号は、私たちに『本願名号のいわれ』を聞かせ、信じさせ、浄土でさとりをひらかせようとおはたらきになるのです。
その名号に阿弥陀仏の誓願、第十八願が込められています。
南無阿弥陀仏はその第十八願(本願)を顕している御名なので『本願の名号』といわれます。
南無阿弥陀仏とは、『南無(帰命)という信心を与えて救う阿弥陀仏』ということです。阿弥陀仏は信心を私たちに与え、私たちは信心を恵まれるのです。
【称名報恩(しょうみょうほうおん)】
正信偈に「ただよくつねに如来の号(みな)を称して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報ずべしといへり」とあります。これが称名報恩をあらわしています。
名号を称える『称名』について、浄土真宗辞典には「親鸞は、真実行を明かす『行巻』において、称名とは本願のはたらきが衆生の口に現われ出てきたものであることを明らかにした。」(浄土真宗辞典P374)とあり、名号を称えることは阿弥陀仏が私の上で活動しているすがたであるといわれます。
また、「信後(信を得た後)の称名は正因決定後の行いであるから、往生に役立たせようとするものでなく、報恩の行であるとされる。」(浄土真宗辞典P374)とあります。これを『称名報恩』というのです。
往生成仏の因(正因)は信のみであり、衆生を往生成仏させる力である名号が衆生の心に至り届いた姿です。
一方、称名念仏もまた名号が衆生の口に出てきた姿です。ただ、南無阿弥陀仏と称える行為という意味での称名念仏は往生成仏の正因ではありません。
称名について、親鸞聖人は教行信証信巻に「真実の信心はかならず名号(ここでは称名のこと)を具(ぐ)す」(註釈版聖典P245)と言われ、信心の本質である名号はかならず称名念仏(※)となって衆生の口の上に活動することを示されています。
※称名念仏は、浄土真宗では「なもあみだぶつ」と読みますが、「なまんだぶ」と称えやすくしたりします。
すなわち称名は信後の信心の相続しているすがたで、『信相続の行』ということになります。(真宗の教義と安心P48)
ここで報恩とは、阿弥陀仏の救いの光の中に摂め取られている我が身をよろこぶ感謝の想いのことをいい、一切の見返りを期待するものではありません。