出家・比叡山修行


 
親鸞聖人は、1173年(今から八百年くらい前)にお生まれになりました。
 
 数え年九歳で清蓮院というお寺で出家されました。当時仏教界の権威者であった慈円僧正という百人一首にも出ている有名な高僧のお寺です。

 その後、比叡山で約20年間懸命に仏教の勉強と修行を積まれたのでした。
 しかし、その20年の間、親鸞聖人の得た結論は、「どのような厳しい修行を積もうとも、煩悩を克服できるものではない。職業的な僧侶でさえそうなのだから、日々の生活に追われる一般庶民には悟りを得る道はない」と悟られたのでした。
 大乗仏教は、すべての人を救済する教えなのに、当時の仏教は大きな矛盾の中にありました。
 

法然上人のもとへ

 

 親鸞聖人は29才の時、全ての人間を平等に救う教えを説く法然聖人という比叡山で天才と言われた方のうわさを聞きつけ、百日間雨の日も風の日も通い続け、ついに法然聖人の元に弟子入りしました。
 
 法然聖人の他力念仏の教えが真の大乗仏教であることを確信したのです。

ご結婚

 
 直後、親鸞聖人は公然と妻帯します。
 
 「結婚して念仏の教えが深まるのなら、結婚したら良かろう」と法然聖人がお認めになったからです。
 
 親鸞聖人は僧侶でありながら、庶民と同じ在俗の生活を始めたのです。

 法然聖人の浄土念仏の教えはますます京都の町に広がっていきました。
 
 

承元の法難

 
 親鸞聖人が35歳のとき法然念仏教団は、弾圧を受けます。このことを浄土真宗では承元(じょうげん)の法難といいます。 
 
 後鳥羽上皇に、比叡山や奈良の古くからの仏教教団から念仏禁止の上申がありました。法然教団は仏教戒律を破る危険な教えだと主張したのです。
 
 当時、女人成仏を説いたのは、法然浄土教だけだったので、女性信者が多くいました。宮中からも法然聖人のお説教を聞きにくる女性たちがいました。
 その中に後鳥羽上皇の求愛を受けていたといわれる女官がいましたが、法然聖人の弟子の住蓮・安楽と密通があったというのうわさが立ちました。念仏教団を妬んだ者の謀略であるとの説があります。
 
 さて、密通があるという噂を聞いた後鳥羽上皇が、浄土教団を弾圧したのです。特に密通をしたと決めつけられた4人が死刑になりました。師である法然聖人は土佐の幡多地方(実際は讃岐に変更された)へ、親鸞聖人は結婚を公然とした破戒僧という理由で越後(新潟県)へと流罪が決まりました
 
 このとき法然聖人とこの世での最後のお別れとなります。
 

越後流刑~関東布教

 

 越後では、4年居たのですが、一年分の食料しか与えられない罪人の生活でした。ここでも念仏の教えを広められます。御伝抄には、「流罪にならなかったらこのへんぴな地方の人々を救うことができなかった」とおっしゃっています。

 流刑の刑期が過ぎますと、京都へは帰らず、関東に移り布教を始めます。日立の国(茨城県)稲田の郷というところを布教の拠点にし、約20年間、関東で布教をしました。他力の教えを学ぶ多くの門弟ができました。

 

山伏弁円


 

 有名な山伏弁円の話があります。
 弁円は、修験道者でしたが、親鸞聖人の元に多くの信者が増えていくことを妬ましく思っていました。そこで、聖人が板敷山を歩いているとき、殺害しようとして後をつけていました。しかしなぜか実行できませんでした。そのまま、聖人のいる庵へ行き、直接聖人から教えを聞き、その教えに感服して弟子となりました。

晩年京都で執筆活動

 

 60才を過ぎた頃、京都にお帰りになりました。そこで教行信証(顕浄土真実教行証文類)の完成(後に浄土真宗の本典となる)、和讃(仮名交じりでの仏徳讃嘆の詩)など多くの著書を著されました。

善鸞義絶

 

 84才のとき、善鸞事件が起こります。親鸞聖人が去った後の関東で、教義上の争いが起こります。

 そこで争いを治めるために、聖人は長男善鸞を聖人の代理として関東へ赴かせました。

 しかし、善鸞ではなかなか収拾がつきませんでした。困った善鸞は自分を権威づけるために「私は、誰も知らない本当の浄土真宗の教義を父(聖人)から夜こっそり教えてもらった」などと言いふらしました。

 そのために、関東の門弟達はますます混乱を起こしました。

 そこで聖人は、善鸞を義絶することになります。親子の縁を切ったのです。

 そこまでしないと教えの混乱を収めることができなかったからです。

 

 聖人は90才でお亡くなりになるまで、その御生涯は、多くの苦難がありました。

 親鸞聖人がその多くの困難を乗り越えられて、鎌倉時代としてはとても珍しい90才という長生きをされたことにより、絶対他力の浄土の教えが正しく深く完成されたのです。