正信偈(5)正定聚
第四節 正定聚(しょうじょうじゅ) この世の利益(りやく)
親鸞聖人は、証巻において
「煩悩成就(あらゆる煩悩を欠くことなくそなえていること)の凡夫、生死罪濁(ざいじょく)の群萌(ぐんもう)、往相回向の心行(しんぎょう/仏より回向された信心と称名)を獲(う)れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するゆゑに、かならず滅度(めつど)に至る。」(註釈版聖典P307)と示されました。
現代語訳は
「煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行(称名)とを得ると、たちどころに大乗(だいじょう※)の正定聚の位に入るのである。正定聚の位にあるから、浄土に生れて必ずさとりに至る」(教行信証現代語版P329)です。
※大乗:もともと大きな乗り物という意味。自らさとりを求めるとともに、広く一切衆生をも救済しよう(大きな乗り物にみんな乗せて救う)とする自利・利他の教えをいう。小乗(しょうじょう/自己のさとり(自利)のみを求める)の教えに対する語。
ここにあるように、「往相回向の心行(仏より回向された信心と称名)を獲(う)れば」たちどころに大乗正定聚の位に入るのです。
すなわち「阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心の開け発(おこ)った最初の時」(これを信の一念という/浄土真宗辞典P401)に必ず往生することができる身に定まった人を正定聚というのです。聚とはなかまの意味で、正定聚とは、『正しく仏になることに定まっているなかま』という意味です。
これによれば、正定聚は、「阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心の開け発(おこ)った最初の時」すなわち信心を恵まれるその瞬間に入る救いです。
必ず仏になるということは、決して後戻りしないので不退転(ふたいてん)ともいいます。親鸞聖人はこのような正定聚は平生(へいぜい/ふだんのこと)の信の一念に与えられる利益であるので、これを『現生(げんしょう)正定聚』といわれました。
このように必ず往生し成仏することに決定するのは、臨終のときではなく、平生であるので、平生業成(へいぜいごうじょう)ともいい、臨終に往生が決定する臨終業成に対することばです。
親鸞聖人は、自著である一念多念文意において正定聚について解説されておられます。
「真実の信心を得れば、ただちに無碍光仏(むげこうぶつ/阿弥陀仏)はそのお心のうちにその人を摂取(せっしゅ)して決してお捨てにならないのである。
『摂(せつ)』はお摂(おさ)めになるということであり、『取』は浄土へ迎え取るということである。
摂め取ってくださるとき、ただちに、時を経ることも日を置くこともなく、正定聚(横(左訓)に「往生すべき身とさだまるなり」と聖人が註釈されてある※)の位に確かに定まることを、『往生を得(う)る』と仰せになっているのである。(中略)阿弥陀仏の浄土に生まれようとするものは、みなことごとく正定聚の位に定まる」(一念多念証文(文意)現代語版P7)とされています。
正定聚とは「必ずさとりを開いて仏になることが決定(けつじょう)しているもののこと」で、親鸞聖人は「往生すべき身とさだまるなり」と左訓されてあるように、現生正定聚とは「他力の信心を得た第十八願の行者のこと」(同書P7下段注)なのです。
真宗における現実の救いは、罪悪生死の凡夫が正定聚の身分にさせられることですが、信心を獲得(ぎゃくとく)しても凡夫は依然として凡夫にはちがいありません。
罪悪生死の凡夫と正定聚の身分とは、真宗の信仰体験においては同時に存在しているのです。
一個の人間を衆生の立場よりいえば罪悪の凡夫であり、阿弥陀仏の回向された至徳の名号を具足する立場よりいえば正定聚の身分であるのです。