正信偈(4)信心
第三節 信心
信心ということをいわない宗教はありませんが、その内容はさまざまで、社会的に問題をもつものも少なからずあるようです。そのような宗教は、信じることが強制的・脅迫的なものが多いように思えます。
浄土真宗の信心は、『南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、仏の仰せにまかせたこと』をいいます。強制も脅迫もありません。それどころか自力もありません。
自力で信じるのではないので、他力の信心です。
他力の信心とは、「阿弥陀仏より衆生に与えられた本願力回向の信心」(浄土真宗辞典P392)をいいます。阿弥陀仏より回向された信心ですから真実信心です。
阿弥陀仏の本願が成就し、南無阿弥陀仏の「名号」が「我にまかせよ、かならず救う」という呼び声として衆生に届きます。その名号は、阿弥陀仏の救いを信じさせ、念仏させ、命終には往生させていく、本願力そのものとしてはたらきます。この救いのはたらきについて行者が受け取ったところを「信」というのです。
この「阿弥陀仏より衆生に与えられた本願力回向の信心」を、歎異抄には「如来よりたまわりたる信心」(歎異抄・註釈版聖典P852)とあります。
この「如来よりたまわりたる信心」すなわち『本願力回向の信心』こそが往生浄土の正因となるのです。ほかにはありません。
『本願力回向の信心』とは、私の信じる心も本願力のはたらきであるという立場です。 信心は恵まれるものなのです。
『浄土真宗の教章(わたしの歩む道)※』には、その「教義」のところで「阿弥陀仏の本願力によって信心を恵まれ」と的確に示されています。
※浄土真宗の教章(わたしの歩む道)は浄土真宗本願寺派「日常勤行聖典」(赤い経本)の最初のページにあります。
阿弥陀仏の本願は、法蔵菩薩の因位(いんに/菩薩が願をたて行をする期間のこと)においておこされた誓願ですが、その本願が実際に成就されていることを釈尊がお説きになりました。
それが無量寿経の第十八願成就文(もん)です。
阿弥陀仏の第十八願が成就したことをあらわす御文です。
第十八願成就文(本願成就文)
「あらゆる衆生、その(南無阿弥陀仏の)名号を聞きて信心歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念せん。至心(ししん)に回向したまへり。かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生を得(う)、不退転に住せん」(註釈版聖典P41)
現代語訳は、
「すべての人々は、その(阿弥陀仏の)名号のいわれを聞いて信じ(信心)喜ぶ(歓喜)まさにそのとき(乃至一念)、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生まれようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである」(教行信証現代語版P231)となります。
親鸞聖人は、「あらゆる衆生、その(南無阿弥陀仏の)名号を聞きて」の「聞きて」とあるのをつぎのように言われます。
教行信証信巻において「無量寿経(第十八願成就文)に『聞(もん/聞きて)』と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞(もん)というのである」(教行信証現代語版p233)とあり、『聞く』とは①「仏願の生起本末を聞くこと」であり②そのことに「疑いの心がないこと」とあります。
仏願の生起本末とは、後述のように、仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあることをいうのです。
南無阿弥陀仏の名号は、本願が成就した名号なので、名号のいわれ(名号は、どのような理由でどのようにできあがったか)を聞くことと、本願のいわれ(本願はどのような理由で起こされ、どのような結果となったか)を聞くことは、同じ意味・同じ内容のことになります。その本願のいわれを聞くことを「仏願(本願)の生起本末(いわれ)を聞く」という言葉で示されたのです。
【仏願の生起本末を聞く】
仏願の生起本末とは、阿弥陀仏の本願が起こされたわけ(仏願の生起)、本願を起こされた阿弥陀仏のご苦労(本)、それによってできあがった結果(末)をいいます。
まず、仏願の『生起』とは、前述のように、阿弥陀仏の本願が起こされた理由、ということです。
その理由は、清浄真実の心から無縁の凡夫(ぼんぶ/煩悩に束縛されている者)の私がここにいたからです。 阿弥陀仏が本願を起こされたわけは、煩悩の垢にまみれて、清らかな心をもたない、とても仏に成る身でない私が、ここにいたからだと言われるのです。
清浄真実の心がなく、とても迷いの世界から出ることのできない私がいたからこそ、仏の願いがおこされたのです。
ですから、『名号のいわれを聞く』ということは、この私のための本願であったということを聞くことなのです。
次に『本』というのは、本願を起こされた阿弥陀仏のご苦労(本)をいいます。
阿弥陀仏のご苦労というのは、法蔵菩薩としてとてつもなく長い期間、衆生救済を思案され、さらにそれを実現するために、兆載永劫(ちょうさいようごう)という量りしれない期間の修行を積まれたことです。
仏願の『末』というのは、本願を起こされた阿弥陀仏のご苦労の結果をいいます。それは、ついにさとりを開いて阿弥陀仏となられ、迷える人間が浄土に生まれるための必要な条件をととのえた名号を成就して、衆生のために回施されているということです。
このことを教行信証で親鸞聖人は「如来の成就されたこの至心(ししん)、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。(中略)この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号(南無阿弥陀仏の名号)をその体(本質。本体。)とするのである。」(教行信証現代語版P196)といわれました。
ここで南無阿弥陀仏の名号とそれを衆生に回施(えせ)する手だての本願力が成就されたのです。
このように、法蔵菩薩は阿弥陀仏に成り、浄土にうまれるために必要な条件をととのえた南無阿弥陀仏の名号を成就して、それを私たちに差し向けられた(回向)のです。
このように、名号のいわれを聞くということは、阿弥陀仏はひとえに迷える私のために本願を起こされ(生起)、その本願を実現するために長い間の思惟と修行をづづけられ、その本願が成就され、今や南無阿弥陀仏の名号となって私たちに差し向けられ、私を呼びつづけて下さる(本末)、そのいわれを聞くということです。
【疑心(ぎしん)なく聞く】
そして、どのように聞くのかというと、成就文にあるように『疑心あることなし』と聞くのです。
阿弥陀仏の仏願の生起と本末とが、名号のいわれであって、それを疑心なく(疑いの心をもたず)、聞くことが第十八願成就文の『聞』であり、これが信心ということになるのです。
他力の信心とは、自分で信じようとする自力の心ではなく、「疑いのふた(疑蓋(ぎがい)=疑いの心)をはずして、そのまま届いてくる仏願の生起本末を聞く」すなわち「そのまま名号のいわれを聞く」ということなのです。
疑いの蓋(ふた)を心にすることで、「名号のいわれ」が届かなくなります。疑いの蓋をはずすことで、「名号のいわれ」が心に映り込みます。この映り込んだ状態そのままを信と言います。ここには信じようとするはからい(自力)はありません。
『真実信心』といわれるものは「『信楽(しんぎょう)』ともいわれ、疑心(ぎしん)なく本願の名号を領受(りょうじゅ)した心をいいます。
これは名号のはたらきが衆生にまさしく至り届いた姿なのです。このことを歎異抄には「如来より、たまはりたる信心」(註釈版聖典P835)と表現されています。
そのことについて、一念多念文意(一念多念証文)において「聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを『聞(もん)』というのである。また聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。」(一念多念証文現代語版P5)といわれます。
これを聞即信(もんそくしん)といいます。
この聞即信について浄土真宗辞典には「(聞即信とは)浄土真宗における聞と信との関係のことで、聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はないということ」とあります。(浄土真宗辞典P662)
この信心は、自分のちからで信じるものではないので、「本願力回向の信心」(教行信証信巻註釈版聖典P251)つまり「如来の本願力により与えられた信心」(教行信証現代語版P233)であると親鸞聖人は言われたのです。
前述の『浄土真宗の教章(わたしの歩む道)』の「教義」に示されたように、私たちは「阿弥陀仏の本願力によって信心を恵まれ」るのです。
【信心正因(しんじんしょういん)】
親鸞聖人は「一心(いっしん/二心(ふたごころ)なく、すなわち疑いの心なく聞き、届けられた信心)が、すなわち清らかな報土(ほうど/浄土のこと)に生れるまことの因である。」(教行信証現代語版P233)と言われました。
これを『信心正因』といいいます。
信心正因とは、この恵まれた信心が往生成仏の正因であるという意味です。
浄土に生まれ、この上ないさとりを開くことのできる因(タネ)は信心であるということで、信心だけが往生成仏の正因ということです。信心以外のもの(たとえば称名念仏)は往生の正因ではないということです。
正信偈に「正定の因はただ信心なり(正定之因唯信心)」と示されています。
【二種深信(にしゅじんしん)】
他力の信心について、どのように信じられたかについて説くのが『機(き)の深信』と『法(ほう)の深信』の二種深信です。
親鸞聖人は、善導大師の観経疏(かんぎょうしょ)の深心(じんしん)の解釈を信巻に引用されました。
「深心というのは、すなわち深く信じる心である。これにまた二種がある。
一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界から離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。(機の深信)二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂(おさ)め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力(がんりき)におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。(法の深信)」(教行信証現代語版P172で現代語訳)
機の深信とは、機すなわち私という人間のありのままの姿は、かぎりない過去から迷い続けいつまでたっても迷いの世界から出るべき縁(えん)の無い罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫である、ということを深く信じることです。
自分の力ではとても浄土に生れるような身ではないことが、深く受けとめられたということです。
一方、法の深信とは、阿弥陀仏の本願はそういう人間をすくい取ってくださることに、少しも間違いがないと深く信じることです。
機の深信は自らのはからいを捨てさるということであり、また法の深信は阿弥陀仏の救済にすべてをまかせるということです。
このように二種深信は矛盾した信ではなく、自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということです。これは阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということです。
二種の深信はまた、阿弥陀仏の光明とそれによって照らし出された自らのすがたです。この光明に遇うということは、『本願力に乗ずる』ということと同じ意味です。
自分の力ではどうにもならないこの私が、そのような私のための阿弥陀仏の本願力によってまちがいなく救われると信ずる、ということになります。これが真宗の他力信心のすがたです。
『仏願の生起本末を聞く』ことでいうと、仏願の生起とは、罪悪深重の私がここにいたことをそのまま受け入れること(機の深信)、仏願の本末とは、その私のために願行を積んで阿弥陀仏となられた、その名号のいわれを疑心なく聞くこと(法の深信)なのですから、信心の内容は、ちょうど二種深信になるわけです。