正信偈本文(3)龍樹・天親
いん ど さい てん し ろん げ
印 度 西 天 之 論 家
印度西天の論家、
*インドの菩薩方や
ちゅう か じち いき し こう そう
中 夏 日 域 之 高 僧
中夏・日域の高僧、
*中国と日本の高僧方が、
【解説】
「印度西天の論家、中夏・日域の高僧」とは、親鸞聖人が尊崇されている七人の高僧のことです。(七高僧については『正信偈(1)正信偈と親鸞聖人と内容』のページにまとめてあります)
「論家」とはインドの高僧で論を説かれた龍樹菩薩と天親菩薩のことです。龍樹菩薩は『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を、天親菩薩は『浄土論』をあらわされました。
中国(中夏)の高僧は、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師で、日本の高僧は、源信僧都、法然聖人です。
けん だいしょう こう せ しょう い
顕 大 聖 興 世 正 意
大聖興世の正意を顕し、
*釈尊が世にでられた本意をあらわし、
みょうにょ らい ほん ぜい おう き
明 如 来 本 誓 応 機
如来の本誓、機に応ずることを明す。
*阿弥陀仏の本願はわたしたちのためにたてられたことを明らかにされた。
【解説】
大聖=釈尊のこと。
興世=出世ともいう。「仏や菩薩などがこの世に出現すること」(浄土真宗辞典P326)
正意=本意、本当の目的
如来=ここでは阿弥陀仏
本誓=本願
応機=「機に応ずる」=「機」とは人のことで、如来の本願は私たちのためにたてられたことを明らかにされた。
七高僧は、お釈迦様がこの世に出現された本意をあらわされ、阿弥陀仏の本願は私たちのためにたてられたことを明らかにされました。
ここで、親鸞聖人は、お釈迦様がこの世に出てこられたのは阿弥陀仏の本願を説くためであり、その本願は私たちのためであったことを示されたのです。
しゃ か にょ らい りょう が せん
釈 迦 如 来 楞 伽 山
釈迦如来、楞伽山にして
*釈尊は楞伽山で
い しゅ ごう みょう なん てん じく
為 衆 告 命 南 天 竺
衆の為に告命したまわく、「南天竺に、
*大衆に、「南インドに
りゅうじゅ だい じ しゅっ と せ
龍 樹 大 士 出 於 世
龍樹大士、世に出でて、
*龍樹菩薩が現れて、
しつ のう ざい は う む けん
悉 能 摧 破 有 無 見
悉く能く有無の見を摧破せん
*有無の邪見をすべて打ち破り、
【解説】
摧破=打ち破る
釈尊は楞伽山(インドの山で場所は諸説ある)で法を説いたことがあります。そのときに、自身が入滅した後に、南インドに龍樹という菩薩が世に出て、有に執着する邪見、無に執着する邪見を破るであろうと予言されました。それから600年後に、南インドに龍樹菩薩が出現するのです。
龍樹菩薩は、大乗仏教の基礎を確立された方です。中観(ちゆうがん)学派の始祖とよばれ、日本では「八宗の祖」といわれます。多くの著書がありますが、そのひとつ「十住(じゆうじゆう)毘婆沙(びばしや)論」の中の「易行品(いぎょうぼん)」において、仏道を「難行道(なんぎようどう)」と「易行道(いぎようどう)」に分ける「難易二道(なんいにどう)」を説かれ、易行道である阿弥陀仏の本願念仏の道を勧められました。
有無の見=仏教の根本的な思想は「縁起説」です。
縁起について、浄土真宗辞典には「因縁と同義。存在に関する普遍的な原理のことで、物事には必ず何らかの原因(因)があり条件(縁)があって生じ存在していることをいう。この考えは仏教の根本真理として位置づけられる」(浄土真宗辞典P57)「(因縁について)果を生じる原因を、直接的原因(因)と間接的原因(縁)とに分けて考える」(浄土真宗辞典P41)とあります。
すべての存在は因と縁とによって絶えず変化して、生じたり滅したりしていると考えます。これが存在の真実のありようであるとするのです。
それに反して、有の見も無の見も、絶えず変化するものと見ることができず、存在を固定的(変化しないもの)に考えています。自己と世界を永遠不滅の実体であると執着する考えを「有の見(常見(じようけん))」といい、その反対にすべてのものは虚無であるとする考え(この世に存在するすべてのものに価値や意味を認めない)を「無の見(断見)」といいます。
龍樹菩薩は、このように有の見解に偏ったり、無の見解に偏ったりすることを偏見(へんけん)だとして、大乗仏教の根本思想である、一切を空(くう)とする中道(ちゆうどう)に帰することを説かれました。
空とは、「もろもろの事物は因縁によって生じたものであって、固定的実体がないということ。縁起しているということ。」(仏教語大辞典)
せん ぜつ だい じょう む じょうほう
宣 説 大 乗 無 上 法
大乗無上の法を宣説し、
*尊い大乗の法を説き、
【解説】
大乗仏教=釈尊の滅後、教えの解釈をめぐって仏教教団は多くの部派に分かれていき、これを部派仏教といいます。その教えは一般大衆には難解になっていきます。このような仏教に対して、すべての人々のための仏教としての大乗仏教運動が起きます。大乗とは、「大きな乗り物」の意味で、みんなで乗って、迷いの世界から悟りの世界に、全ての人を運ぶという教えです。この大乗仏教の代表的な僧として、インドでは「龍樹菩薩(150~250年頃)天親菩薩(世親(せしん)ともいう400年~480年頃)の二人が出られました。
大乗無上の法=大乗とは、自分だけが苦を離れることをめざすのではなく、共に悟りに至ることをめざす広大な教えなので「無上の法」といわれます。その大乗無上の法をつきつめれば、阿弥陀仏の法ということになります。つまり大乗無上の法とは、本願他力の教法のことになるのです。
しょう かん ぎ じ しょう あん らく
証 歓 喜 地 生 安 楽
歓喜地を証して安楽に生ぜん」と。
*歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろう」と仰せになった。
【解説】
歓喜地=仏道修行する菩薩に五十二の修行の段階があり、このうちの第四十一位のことを歓喜地といいます。初地ともいいます。菩薩がこの位に至れば後戻りがなく、必ず成仏することになります。それで歓喜するので歓喜地というのです。不退転(ふたいてん/後戻りがない)の位ともいいます。
けん じ なん ぎょう ろく ろ く
顕 示 難 行 陸 路 苦
難行の陸路、苦しきことを顕示して、
*龍樹菩薩は、難行道は苦しい陸路のようであると示し、
しん ぎょう い ぎょうしい どう らく
信 楽 易 行 水 道 楽
易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
*易行道は楽しい船旅のようであるとお勧めになる。
【解説】
<難行と易行>
龍樹菩薩の易行品(いぎようぼん)には「陸路を歩いて行くのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道も同じである。自力の行に励むものもいれば、他力信心の易行で速(すみ)やかに不退転の位に至るものもある。もし人が速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称(とな)えるがよい。」(教行信証現代語版P39)とあります。「(易行道の)楽しい船旅」とは阿弥陀仏の本願に乗じることをいうのです。これを二道鴻判(にどうこうはん)または難易二道判といいます。
このことを親鸞聖人は、高僧和讃で次のように示されました。
龍樹大士(菩薩)世にいでて
難行・易行のみちを(お)しへ
流転輪廻のわれらをば
弘誓(本願)のふね(※)にのせたまふ (註釈版聖典P579)
※弘誓のふねとは、「阿弥陀仏の本願を、迷いの海をわたってさとりの彼岸に至らせる船に喩え」(同P579欄外注)ているのです。
おく ねん み だ ぶつ ほん がん
憶 念 弥 陀 仏 本 願
「弥陀仏の本願を憶念すれば、
*「阿弥陀仏の本願を信じれば、
じ ねん そく じ にゅう ひつ じょう
自 然 即 時 入 必 定
自然に即の時必定に入る
*おのずからただちに正定聚に入る。
【解説】
憶念=信じる一念
自然(じねん)=本願力(他力)により、おのずから
即の時に=ただちに
必定=正定聚(かならず仏になる身にさせていただく)
この二文を直訳すると「阿弥陀仏の本願を信じる一念のとき、本願力(他力)によりただちに必ず正定聚(仏になる身)にしていただく」ということで、これは信心正因(※)ということです。
※信心正因について浄土真宗辞典では「浄土真宗における往生成仏の正(まさ)しき因(直接の原因)は信心一つであるということ」(浄土真宗辞典P397)とあります。(信心正因については正信偈(4)信心に詳細)
親鸞聖人は「さとりにいたる真実の因は、ただ信心ひとつである」(教行信証現代語版P193)と言われました。
龍樹菩薩の易行品「信心正因」の偈文においても「もし人が、わたし(阿弥陀仏)の名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる」(同現代語訳P41)とあり、また「この仏の名号がそなえるはかり知れない徳のはたらきを信じる人は、ただちに不退転(後戻りしない)の位に至ることができる」(同現代語訳P42)とあります。
ゆい のうじょうしょう にょ らい ごう
唯 能 常 称 如 来 号
唯能く常に如来の号を称して、
*ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、
おう ほう だい ひ ぐ ぜい おん
応 報 大 悲 弘 誓 恩
(まさに)大悲弘誓の恩を報ず応し」といえり。
*本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい」と述べられた。
【解説】
如来号=南無阿弥陀仏の名号
親鸞聖人は、阿弥陀様の御本願に気づき念仏するようになった後は、「『ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい』と龍樹菩薩がお示しくださっている」といわれます。阿弥陀様から届けられているお心を受け止め、努めて報恩の念仏をしなさいという事が「報ずべし」という事で、これを「称名報恩」といいます。(称名報恩については正信偈(3)本願と名号のページに詳細)
【龍樹菩薩と称名報恩(僧侶・学習者向け内容)】
『安心論題を学ぶ』では、親鸞聖人においては、「称名念仏はおおむね正定業としての位置づけだが、報恩行としてのお示しもされている」とあります。
その内容は「龍樹菩薩の易行品の『人よくこの仏の無量力(りき)威徳を念ずれば、即時に必定(正定聚)に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。』(註釈版聖典七祖編P16)のご文が報恩をあらわしているというのです。このご文は本願成就文の意を述べたものといわれ、『この仏の無量力威徳を念ずれば』は『聞其名号信心歓喜』にあたり、『即時に必定に入る』は『即得往生住不退転』にあたると考えられます。そこで『このゆゑにわれつねに念じたてまつる』とは、報恩の念仏を意味するといわれるのです。」(安心論題を学ぶP266)とあります。
この『このゆゑにわれつねに念じたてまつる』が『報恩の念仏』を意味することの根拠は、導綽禅師の『安楽集』には「『大智度論(龍樹菩薩の著書)』によるに三番の解釈あり。『第一に仏はこれ無上法王にして(中略)まさにつねに念仏すべし。第二にもろもろの菩薩ありてみづからいはく(中略)報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんと願ず。』と」(註釈版聖典P251)のご文から、「同じ龍樹菩薩の作といわれている『大智度論』に、念仏の意義として報恩が示されていますので、併せ考えて、先の『易行品』のご文も称名報恩を意味しているとみることができるのです。」(安心論題を学ぶP267)とあります。
てん じん ぼ さつ ぞう ろん せつ
天 親 菩 薩 造 論 説
天親菩薩『論』を造りて説かく、
*天親菩薩は、『浄土論』を著して、
論=「浄土論」のこと。
天親(世親)菩薩(400~480頃)=インド唯識学の大家で「浄土論」を著しました。
阿弥陀仏におまかせする一心の信心の大切さを教え、「一心の宣布」を発揮されました。
き みょう む げ こう にょ らい
帰 命 無 碍 光 如 来
「無碍光如来に帰命したてまつる」。
*無碍光如来に帰依したてまつる」と述べられた。
【解説】
浄土論最初の句は
「世尊よ、わたしは一心に(世尊我一心)尽(じん)十方(じっぽう)無碍光(むげこう)如来に帰命したてまつり、安楽国に生まれたいと思う(願生安楽国)。」(浄土論現代語版P41)です。
このお言葉について、親鸞聖人は、自著である『尊号真像銘文』に、下記のように解説されました。
「『一心』というのは、釈尊の仰せに対して二心(ふたごころ)なく疑いがないということであり、すなわちこれは真実の信心である。『帰命尽十方無碍光如来』というのは、『帰命』とは『南無』であり、また『帰命』というのは阿弥陀仏の本願の仰せにしたがうという意味である。
『帰命尽十方無碍光如来』というのは、すなわち阿弥陀仏のことであり、この仏は光明そのものである。『尽十方』というのは、『尽』とは「つくす」といい、「ことごとく」ということであり、光明が余すところなくすべての世界に満ちわたっておられるのである。「無碍」というのは、さまたげられることがないというのである。さまたげられることがないというのは、衆生の煩悩や悪い行いにさまたげられることがないのである。「光如来」というのは、阿弥陀仏のことであり、この仏は不可思議光仏ともいう。この仏は智慧が光のすがたをとったものであり、その光が数限りないすべての世界に満ちておられることを知るがよいというのである。「願生安楽国」というのは、世親菩薩が無碍光仏である阿弥陀仏の名号を称えて疑いなく信じ、安楽国に生まれようと願っておられるのである。」(尊号真像銘文現代語版P19)
え しゅ た ら けん しん じつ
依 修 多 羅 顕 真 実
修多羅に依りて真実を顕して、
*浄土の経典にもとづいて阿弥陀仏のまことをあらわされ、
【解説】
修多羅=お経を意味する。下記の親鸞聖人の尊号真像銘文に、浄土三部経によると示されている。
真実=真実功徳相のこと。下記に「誓願の尊号=本願に誓われた名号」とある。
親鸞聖人の著書である尊号真像銘文には「『修多羅』というのは大乗のことであり、小乗のことではない。浄土の三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)は大乗の経典であり、この三部の大乗経典によるというのである。『真実功徳』とは本願に誓われた名号のことで、『相』はかたちという言葉である」(尊号真像銘文現代語版P21)とあります。
こう せん おう ちょうだい せい がん
光 闡 横 超 大 誓 願
横超の大誓願を光闡す。
*横超のすぐれた誓願を広くお示しになり、
【解説】
光闡=光り輝かせて明らかに説き述べること
横超=堅(たて)に自力修行で段階を経ていくのではなく、横に一足跳びに飛び超えて往生成仏するのが他力の横超。(前述の『即横超截五悪趣』に詳細)
大誓願=すべての衆生を救うと誓われた第十八願(本願)
こう ゆ ほん がん りき え こう
広 由 本 願 力 廻 向
広く本願力の廻向に由りて、
*本願力の回向によって
い ど ぐん じょうしょう いっしん
為 度 群 生 彰 一 心
群生を度せんが為に一心を彰す。
*すべてのものを救うために、一心すなわち他力の信心の徳を明らかにされた。
【解説】
本願力=阿弥陀仏の第十八願(本願)のはたらき。衆生に阿弥陀仏の救いを信じさせ、南無阿弥陀仏の名号を称えさせ、往生成仏させるはたらき(本願力については『正信偈(3)本願と名号』のページに詳細)
回向=如来が、功徳を私たちにめぐらして施して、救いのはたらきを差し向けること(回向については『正信偈(3)本願と名号』のページに詳細)
度=救済すること
群生=人々のこと。また煩悩が果てもなく深いのを海に譬えて「群生海」ともいう。
一心=深く信じて疑わず、二心(ふたごころ)がないこと。自分の雑念がまじらない、純一のこころ。ここでは如来より回向された信心のこと。
き にゅう く どく だい ほう かい
帰 入 功 徳 大 宝 海
「功徳大宝海に帰入すれば、
*「本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば、
ひつ ぎゃくにゅうだい え しゅ しゅ
必 獲 入 大 会 衆 数
必ず大会衆の数に入ることを獲。
*浄土に往生する身と定まる。
【解説】
帰入=阿弥陀仏に心身をゆだねる「帰依」と自力の心をひるがえして他力に帰入する「回入(えにゆう)」とを一つにした言葉。つまり「帰入」とは、自力のはからいを捨てて他力に帰し、真実の世界に入ることをいいます。
親鸞聖人は自著の一念多念証文(文意)において、「功徳大宝海」について、「(天親菩薩の)浄土論には(中略)『本願に出あって、むなしく時をすごす人はいない。速やかに大いなる功徳の宝の海(功徳大宝海)を満足させてくださる』といわれているのである。(中略)『功徳』というのは、名号のこと(※)である。『大宝海』とは、あらゆる功徳が欠けることなく満ちていることを、海にたとえておられるのである。(中略)金剛の信心を得た人は、知らなくても、求めなくても、すぐれた功徳の宝がその身に満ちみちるので、そのことを大宝海にたとえておられるのである」(一念多念証文現代語版P33-35)と説かれています。
※功徳とは、修行の結果により積まれた徳のことです。善い行いを原因として生ずる善い結果を意味します。私たち凡夫が自分で善い原因を作ることはできないので、私たちに代わって、阿弥陀仏が善い原因をお作りになり、その結果である功徳が生じたのです。その功徳を阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」という名号として、私たち凡夫に届けられているということです。
大会(だいえ)=阿弥陀仏がお浄土で、現に説法しておられる会座(えざ)のこと。自力を捨てて他力に帰入したなら、必ず大会衆(浄土の聖者の仲間)の数に入ることができる利益が得られるのです。
とく し れん げ ぞう せ かい
得 至 蓮 華 蔵 世 界
蓮華蔵世界に至ることを得れば、
*阿弥陀仏の浄土に往生すれば、
そくしょう しん にょ ほっ しょう じん
即 証 真 如 法 性 身
即ち真如法性の身を証せしむと。
*ただちに真如をさとった身となり、
【解説】
蓮華蔵世界=阿弥陀仏の浄土のこと。
親鸞聖人は唯信鈔文意において「極楽と申すはかの安楽浄土なり。(中略)また『論』(浄土論)には、「蓮華藏世界」といへり。」(註釈版聖典P709)と示されました。
真如法性身=「真実そのもの」のありようを「真如」といい「無上大涅槃」といい、「法性」といいます。(詳細は、『正信偈(2)阿弥陀仏』のページ参照)その「真如」「法性」を「証する身」とは、仏に成るということです。親鸞聖人は、一念多念文意(証文)にて「一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。」(註釈版聖典P690)とあり、真如そのものが無上大涅槃であり法性であり如来であるとされます。
ゆう ぼん のう りん げん じん ずう
遊 煩 悩 林 現 神 通
煩悩の林に遊んで神通を現じ、
*さらに迷いの世界に還り、神通力をあらわして
にゅうしょうじ おん じ おう げ
入 生 死 薗 示 応 化
生死の薗に入りて応化を示す」といえり。
*自在に衆生を救うことができる」と述べられた。
【解説】
この二文は還相回向について示された内容です。
(還相回向については『正信偈(6)往生浄土』のページに詳細)
遊=遊ぶの意味。衆生を救うことが自由自在なこと。
煩悩の林=迷いの世界。煩悩が林のように茂っているたとえ。
神通=不可思議な力の意味。神通力。
生死の薗=娑婆(この世)の煩悩に充ち満ちた現実の世界のたとえ。
応化=衆生のそれぞれに応じて、救いのはたらきをすること。
親鸞聖人は、教行信証証巻において「還相の回向というのは、、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。これは必至補処の願(第二十二願)より出てきたものである。(中略)『浄土論』にいわれている。『出の第五門(※)』とは、大慈悲の心をもって、苦しみ悩むすべての衆生を観じて、救うためのさまざまなすがたを現し、煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位にいたることである。このようなはたらきは、阿弥陀仏の本願力の回向によるのである」(教行信証現代語版P340)と示されました。
※出の第五門(浄土論にある五功徳門(五果門)のひとつで園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)といいます。